「誰かを思い通りにしたい」
「絶対に叶えたい願いがある」
「どうしてもあの人と縁を切りたい——」
そんなふうに強く願ったことはありませんか?
人の心には時に、祈りと呪いの境界が曖昧になる瞬間があります。
そして、日本には昔から「お百度参り」という特別な祈願法が存在します。神社やお寺の前を100回往復して、ただひたすらに願いを捧げる行為——その姿は、時に“呪いの儀式”とも捉えられるほどの執念を帯びることも。
そこで今回は、「お百度参り=呪いなのか?」という疑問に迫りながら、その歴史、意味、そして正しい付き合い方をエンタメ感覚で深掘りしていきます。
お百度参りとは?本来は“救い”のための祈りだった

お百度参りは、神仏への「願掛け」の一種です。神社や寺の本殿と百度石を何度も往復しながら、同じ願いを心の中で唱え続けます。その数、基本は100回——だから「お百度」と呼ばれるのです。
特に有名なのは、病気平癒や家族の安全祈願など、「誰かを守りたい」という思いから始まった祈りです。
もともとはとても純粋な信仰行為だったのですが、時代が変わるにつれて、その“強さ”が逆に呪術的に捉えられるようにもなりました。
お百度参りがどんなものかについてはこちらの記事でまとめています!興味ある方はぜひ読んでみてください!
いつから「呪いっぽい」と思われるようになった?

結論からいえば、「お百度参りは呪いではありません」。
ただし、その“祈りの濃度”が高まりすぎると、スピリチュアルな領域で「呪いに近づく」と言われることがあるのも事実です。
例えば、以下のようなケースです:
- 「どうしても別れさせたい」など他人の不幸を願う内容
- 形だけ真似して“怨念”のこもった行動を取る
- 深夜に無言で100回の往復を続ける(不気味…)
これらの行為は、「願い」ではなく「執着」に近い状態といえます。
信仰の世界でも「誰かを不幸にする祈り」は自分に返ってくるとされ、因果応報という形で語られることが多いです。
「お百度参り=呪い」の噂はどこから来たのか?

一部の怪談や都市伝説、オカルト系の本・映画などで、「お百度参りをすれば相手に不幸が起きる」「呪いが完成する」といった誤解が広まりました。
TSUTAYAに並ぶホラーDVDの中にも、お百度参りを“怨念の儀式”として描いた作品があるほど。その影響で、「あれって呪いじゃないの?」と感じる人が増えたとも言えるでしょう。
しかし、神社や寺の立場としては「お百度=神聖な祈願」です。使い方を間違えなければ、心を浄化し、再出発するための尊い行為なのです。
呪いにならないために、やってはいけない祈り方

お百度参りは、あくまで“自分の願いをまっすぐ神仏に届ける”ためのものです。しかし、その祈り方によっては「呪い」と受け取られてしまう場合もあるため注意が必要です。以下のような祈願内容や姿勢は、避けるべきとされています。
■ 他人の不幸を願う祈り
「〇〇が失敗しますように」「あの人が離婚しますように」といった、他人の不幸や不運を望む祈願は、お百度参りの本来の趣旨から大きく逸脱します。神仏は“正直な祈り”は受け止めますが、“悪意ある祈り”は自らに跳ね返るとも言われています。
■ 対象を特定しすぎる祈り
「〇〇と別れて、私と付き合ってほしい」など、具体的すぎる個人への執着を強く含む願いも注意が必要です。どうしても気持ちが固まらない場合は、「私は幸せな愛を育める縁に導かれますように」と、自分の在り方に焦点を当てた表現にしましょう。
■ 恨みや怒りの感情をぶつける祈り
感情が高ぶったままの状態で祈ると、願いではなく**念(執着や怒り)**が届いてしまうと言われています。お百度参りは、自分の心と向き合う儀式です。まずは深呼吸し、落ち着いた状態で祈りを始めることが大切です。
■ 執念に近い反復
毎日何百回も繰り返す、対象の写真や名前を持ち歩いて祈り続けるなどの行為は、神仏への願いではなく強い念を飛ばす呪術的行動とみなされることがあります。お百度参りは「覚悟を持った一度きりの100回」が本来の姿。やりすぎには注意を。
正しいお百度参りのすすめ:心を整えるための儀式として

お百度参りは、単なる願掛けや神頼みではありません。本質は、自分自身の内面と向き合い、心を整えるための静かな修行の儀式です。だからこそ、その場に立ち、100回の往復を重ねる中で、「本当に自分が望んでいるものは何か」「何を手放すべきなのか」に気づいていく人が多くいます。
お百度参りを正しく行うためには、以下の点を意識することが大切です。
■ 祈りを通して“感情”を整理する
歩きながら祈るという行為は、頭で考えるだけの願掛けと違い、身体感覚と心が一体になります。その過程で、怒りや焦り、不安といった雑念が少しずつ洗い流され、静かな気づきや本心にたどり着けることがあります。
■ 願いを“未来志向”で描く
「〇〇がいなくなればいい」「あの人と別れたい」などの“過去や他人”に縛られた願いではなく、「自分がどうありたいか」「どんな未来を望むのか」といった前向きで主体的な願いが、お百度参りにおける理想的な祈り方です。
■ 「叶える覚悟」を持って臨む
お百度参りは、願いをすべて神様に任せて終わり、ではありません。願いを持った自分が、その実現に向けてどう動いていくか。行動する覚悟や責任も含めて祈ることで、初めて“気持ちが整った祈り”になります。
まとめ:祈りは使い方次第で光にも闇にもなる
いかがでしたでしょうか。お百度参りは本来、誰かを助けたい、自分を立て直したいという「再生の祈り」です。ただし、そのエネルギーが強すぎると、時に“呪い”としての側面が語られてしまうのも事実です。
大切なのは、「誰かを不幸にするため」ではなく、「自分や大切な人を幸せにするため」に行うこと。そこにこそ、お百度参りの本当の意味があります。
願いと呪い、その境界線は意外と近い。
でも、どうせ祈るなら、自分にも誰かにも優しい方向へ。
お百度参りについて他のおすすめ記事もあります!興味ある方はぜひ読んでみてください!
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