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教育

日本の教育システムの歴史と問題点

皆さん、日本の教育システムがどのような歴史をたどってきたのかご存知でしょうか。最近では”ゆとり教育”や”詰め込み教育”など教育に関して様々なことが言われていますが、その原点はどのような感じだったのでしょうか。教育システムはどのような歴史をたどってきたのでしょうか。実は今では当たり前ですが明治時代では男子しか大学に行けないだとか。今回は意外と知られていない日本の教育システムの歴史を紹介していきます。

教育システムの歴史

それではまず日本の教育システムの歴史を見ていきましょう。日本の教育システムは寺子屋、藩校という順番で庶民の教育の場としての地位を確立していきました。そして明治時代に入ると義務教育が法律で制定され、全国へ普及していきました。そこで今回は寺子屋から順を追ってみてきます。

寺子屋

(画像引用: nippon.com)

寺子屋は、日本の古代から存在する教育システムで、特に江戸時代に広く普及しました。元々は貴族や武士の子弟を対象にした教育でしたが、江戸時代には庶民の子どもたちにも教育の門戸が開かれ、全国に約1万4千の寺子屋が設けられました。 寺子屋のカリキュラムは多岐にわたり、読み書きや算盤(そろばん)の基本的な学問のほか、仏教の教えや礼儀作法も教授されていました。この教育の普及により、日本社会の識字率は大きく向上し、寺子屋で学んだ人々は社会で活躍する基盤を築くことができました。 寺子屋のシステムは、現代の学校教育の基礎を形成する重要な役割を果たしており、日本の教育史において非常に重要な位置を占めています。

藩校

(画像引用: アゴラ)

日本の近代教育の基礎は、江戸時代の藩校にその起源を持ちます。藩校は、各地の藩によって設立された公的な教育機関で、主に武士の子弟を対象としていました。教育の内容は多岐にわたり、儒学や武道、兵学が中心で、一部の藩校では西洋科学の研究も行われていました。薩摩藩の造士館などがその例です。 明治維新を迎えると、日本は急速に近代国家へと変貌を遂げました。この変化の中で、国民一人ひとりが近代的な知識や技能を身につけることが重要とされるようになります。このため、明治政府は1872年に「学制」を公布し、日本全国に小学校を設置するなど、近代的な学校制度を整備しました。この学制は、日本の近代教育システムの礎を築いたとされ、小学校、中学校、高等学校などの学校種が定められました。 藩校が提供した教育は、明治時代の新たな教育制度に影響を与え、日本の教育史において重要な役割を果たしました。その教育の理念と内容は、日本の近代教育制度の発展に貴重な土台を提供したのです。

義務教育の制定

明治時代になり、近代化を推し進めていきたい新しい日本政府は教育にも改革を着手しました。1886年に最初に制定された小学校令では、尋常小学校の4年間が義務教育とされましたが、この時点では就学率が低迷しており、実施は各府県の裁量に委ねられていました。 1907年に改正された小学校令では、義務教育期間が尋常小学校の6年間に延長され、地方教育費の充実や教員養成の拡充が進められました。これらの改善により、1920年には尋常小学校の就学率が90%を超えるなど、義務教育制度がほぼ確立されました。 第二次世界大戦後、義務教育はさらに拡大し、1947年に制定された学校教育法によって9年間の無償の義務教育が確立されました。この法律は6歳から15歳までの子どもたちに小学校6年間と中学校3年間の教育を保障し、戦後の日本社会の復興と教育普及に大きく貢献しました。 特に1960年代には小学校の就学率が99%以上に達し、日本の教育水準は大きく向上しました。この高い就学率は、日本の急速な経済成長期とも重なり、教育が国の発展に欠かせない要素であることを示しています。義務教育の普及によって、より多くの人々が基本的な読み書き能力や算数能力を身につけることができ、その結果、技術や科学の分野での進歩が加速しました。

明治時代の教育の問題点

こうして明治時代に日本で初めて義務教育が確立されたわけですが、その様相は今の日本の義務教育とは大きく異なる様相でした。1872年に公布された学制によって、日本は全国的な教育制度の構築を始めましたが、当初は多くの人々が小学校教育すら受けられない状況でした。明治政府の教育普及努力にもかかわらず、小学校に通わない、あるいは通えない子どもたちが少なくありませんでした。この状況は徐々に改善され、1907年には尋常小学校の6年間が義務教育と定められ、就学率が97%を超えるまでに至りました。

この時期、日本には大学がわずか3つしか存在していませんでした。それらは、東京帝国大学(現・東京大学)、京都帝国大学(現・京都大学)、そして東北帝国大学(現・東北大学)で、これらの大学への進学ルートは非常に限られており、特に女子にとってはほぼ閉ざされていました。このため、高等教育へのアクセスは、主に男子学生に限られる状況が続いていました。

明治時代の日本での教育制度の導入初期の課題と、教育へのアクセスの不均衡について詳述しています。教育の普及が進むにつれ、学校制度は徐々に整備され、義務教育の確立を通じて、より多くの子どもたちが基本的な教育を受けられるようになりましたが、大学教育への道は依然として限られていたという点が強調されています。

明治時代の男子の大学までのルート

戦前の日本における男子の大学進学ルートは、厳格な教育階層と入試制度によって特徴づけられていました。尋常小学校を卒業した後の進路として、主に三つの選択肢がありました:中学校、高等小学校、実業学校。これらの学校はそれぞれ異なるカリキュラムと期間を設けており、中学校は5年制、高等小学校は2年制、実業学校は3年制でした。 中学校に進学することは、当時の男子にとって大学への最初の大きな関門でありました。中学校は当時、5年制で、現在の中学1年生から高校2年生に相当し、これを卒業することが高等教育への通過点となっていました。

ただし、中学校への入学には競争の厳しい入試を突破しなければならず、また、学費も公立であっても必要でした。このため、経済的にも恵まれた層からの進学者が多いのが現状でした。 中学校を卒業後、さらに競争が激しい入試を経て、全国に約30校しかない高等学校に進学することができました。高等学校を卒業すると、帝国大学への進学がほぼ約束されていましたが、特に東京帝国大学(現・東京大学)や京都帝国大学(現・京都大学)への競争は依然として激しかったです。

高等学校は帝国大学の教養課程に近い形で運営されており、これにより高等学校を卒業した男子は、帝国大学のどれかに進学することが一般的でした。 戦後、教育制度は大きく変わり、戦前の中学校は高等学校に、高等学校は多くが地方国立大学の教養学部や文理学部などに変わりました。この教育改革により、より多くの学生が高等教育の機会を得ることが可能となりました。戦前の教育システムは、厳しい選抜と限られた教育機会に特徴づけられており、その競争は極めて熾烈でした。

明治時代の女子の大学までのルート

戦前の日本における女子の教育は、大学進学が極めて限られたものでした。高等教育へのアクセスが男性に比べて格段に制限されており、女子は高等女学校に進学することが一般的でした。高等女学校は4年制または5年制で、現代の中高一貫教育に相当しますが、教育内容は「良妻賢母」を目指すカリキュラムに重点を置いており、家事や裁縫などが教えられていました。 高等小学校や実業学校には女子も入学可能でしたが、これらの教育機関から高等教育へと進む道はほとんど用意されていませんでした。男子が中学校や高等学校に進学して高等教育を目指す一方で、女子にはそのような進路がほとんど認められていなかったのです。

日本で女子が初めて大学に入学したのは1913年のことで、東北帝国大学が女子の受験を独自に認めた結果です。この時、3人の女子が入学しましたが、この出来事は当時の文部省から「元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例これ無きことにて頗る重大なる事件」としてクレームが付けられるほど、社会的にも非常に重大な事件と捉えられました。

このように、戦前の日本における女子の教育は、主に家庭における役割を重視する形で提供されていました。高等教育の道が男性に比べて極めて限られていたため、女性が学問の世界で活躍する機会はほとんどありませんでした。それが1913年の東北帝国大学の出来事によって少しずつ変わり始めたのですが、女性の高等教育への本格的な道が開かれるのはそれからさらに長い時間を要することとなります。

師範学校

戦前の日本では、教師を目指す人々は主に師範学校に進学していました。これらの学校は全国各県に一つずつ設置されており、戦後には多くが地方国立大学の教育学部となりました。師範学校は、高等小学校や高等女学校の卒業生も入学でき、学費が無料だったため、経済的あるいはジェンダーによる進学の障壁を持つ人々にとって重要な教育機会を提供していました。 師範学校の中で特に格上とされたのが、高等師範学校(男子校)と女子高等師範学校で、これらはより専門的な教員養成を行っていました。例えば、東京高等師範学校は現在の筑波大学の前身であり、東京女子高等師範学校は現在のお茶の水女子大学につながっています。

また、戦前の専門学校は中学校や高等女学校の卒業生に対し職業教育を施す場として機能しており、例えば医学専門学校は現在の医学部医学科に相当します。これらの専門学校は後に医科大学へと昇格し、千葉・金沢・新潟・岡山・長崎・熊本大学の医学部として知られるようになりました。 戦前から存在する私立大学の多くは、専門学校からスタートしています。1920年には慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、中央大学、法政大学、日本大学、同志社大学、國學院大學などが大学として正式に認可されました。これらの私立大学は、それぞれ特色ある教育カリキュラムを提供し、多様な学問分野で専門性を高める教育を行っていたことから、戦後の日本の高等教育の発展に大きく寄与しました。 戦前の師範学校や専門学校は、日本の教育体系の中で特定のニーズに応える重要な役割を果たしていたことが見て取れます。

これらの教育機関は、教師や専門職といった資格を必要とする職業への道を開き、また、戦後の日本の学制改革においてもその基盤となるものでした。 これらの学校の卒業生は、教育、医療、技術などの分野で中核的な役割を果たし、日本の近代化と社会的進歩に大きく貢献しました。教育の普及とともに、これらの専門学校から発展した大学は、より広範な学問の場として機能し、戦後の日本社会における教育の普及と高度化を支える重要な柱となっています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。今回日本の教育システムの歴史や実態を見ていきました。寺子屋から始めり、藩校を経て義務教育が確立されましたが、実態は女子が大学まで行くのが極めて難しく、男子であっても一部しか大学まで行くことができなかったという状況でした。

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